メジャーリーグで大活躍されている大谷翔平選手。
今や世界中のヒーローともいえる大谷翔平さんですが、彼の生い立ちを辿ってみると、活躍の裏には陰ながら支えていた家族の存在も大きかったようです。
今回の記事では、大谷翔平さんの生い立ちについて家族の情報にも触れながらご紹介させて頂きます。
目次
大谷翔平プロフィール
- 出身地:岩手県奥州市
- 生年月日:1994年7月5日(25歳)20年5月時点
- 身長・体重:約194㎝・約95.3kg
- 投球・打席:右投げ左打ち
- ポジション:投手、指名打者、外野手
- 学歴:花巻東高等学校
- 経歴:北海道日本ハムファイターズ(2013~2017)・ロサンゼルス・エンゼルス(2018~)
大谷翔平さんは、2012年11月に行われたドラフト会議で日本プロ野球パリーグ日本ハムファイターズで1位指名。
日本での活躍が目に留まり2018年にアメリカメジャーリーグのロサンゼルス・エンゼルスへ移籍。
野球の活躍のみならず人柄までも高く評価され、現在は日本人ならず、世界中の人が夢中になる選手として活躍されています。
そんな大谷翔平さんの生い立ちを辿ってみると、メジャーリーガーの野球選手になるまでには家族抜きでは成し遂げられなかったたくさんのエピソードがあるようです。
大谷翔平さんについて、家族の情報にも触れながら生い立ちをご紹介していきたいと思います。
大谷翔平の家族構成
- 父:徹さん
- 母:加代子さん
- 兄:龍太さん
- 姉:結香さん
大谷翔平さんは、5人家族の末っ子として誕生しました。
大谷翔平さんが誕生したのは岩手県の奥州平泉。
奥州平泉といえば、牛若丸として有名な源義経のゆかりの地です。
そんなことから、その源義経の“空翔る”から「翔」を、ゆかりのある平泉から「平」を取り、父親の徹さんが名付けたそうです。
大谷徹さんは、もともと「翔」という「はばたく」というイメージが好きで、この字を使いたかったのだそうです。
この「はばたく」というイメージの通り、大谷翔平選手は世界にはばたき活躍していますね。
まさに、父の思いが受け継がれたということなのだと思います。
大谷翔平の華麗な生い立ち
幼少期:岩手県奥州市に移住
岩手県の奥州平泉で誕生した大谷翔平さんですが、もともと大谷家はお母様の実家がある神奈川県神奈川市に住んでいました。
上2人の兄弟は神奈川県横浜市生まれの大谷一家ですが、大谷翔平さんは岩手県奥州市で生まれ育っています。
お母様の実家の近くだったにもかかわらず、幼い我が子を連れて岩手県に引っ越しを決断.
神奈川県→岩手県に移住
その理由は、子育て環境を考えてのことでした。
引用元:新春スペシャルYouTube
翔平には7歳上の兄、2歳上の姉がいるが、二人は父・徹さんの以前の勤務先である横浜市で生まれた。だが両親は子育ての環境を考え、新たに工場が稼働する岩手への異動を希望。加代子さんが言う。
「私の実家がある横浜にいれば何かと楽だったのですが、子供たちを伸び伸び育てるには、狭い家で暮らすより、自然に囲まれた広い環境の方がいいと思ったんです。親子さんの都合より、子育てを優先しました」
「良い環境で育てたい」そんな両親の考えのもと、岩手県で、大谷翔平さんはすくすくと成長していきました。
あるインタビューでは、幼少期の大谷翔平さんについて、母親・加代子さんはこのように語っています。
「周りをよく見ながらやっている。他の子がやってて怒られるのを見れば自分はやらなかったり、上のお姉ちゃんが「こうしたい、あれ欲しい」とか駄々をこねる子だったんですけど、そういうのをすぐそばで見ていたので「僕はいいよ」とか上手く怒られないように・・起こるようなところが小さい頃はあまり記憶の中ではない。」
引用元:新春スペシャルYouTube
小学生時代:7つ上の兄・2つ上の姉から学んだ「何事にもチャレンジする精神」
引用元:新春スペシャルYouTube
幼少期から、体を動かすのが大好きだった大谷翔平さん。
小学生時代は、
- 水泳
- バドミントン
- 野球
に明け暮れていたといいます。
仲の良い兄弟として育った大谷さんは、その頃の遊び相手は主に7歳上のお兄さんと2つ上の姉でした。
引用元:新春スペシャルYouTube
大谷さんは、兄弟の後ろを見て育ち、それが運動神経の基礎を築くことになったそうです。
「遊ぶ相手としては姉の友達とかなので、僕からしたら年上のお兄ちゃんとかと一緒にサッカーやったりとかそれこそやってたので、明らかに勝てないですし勝ちに行くんですけどいつも勝てなかったですね。そういう中ででもやるのは凄い楽しかった。」
引用元:新春スペシャルYouTube
幼いころの兄弟との関りによって、温和で何事にもチャレンジする大谷翔平さんのベースが築きあげられたようですね。
野球人生の始まり~父・母に支えられスタート
大谷翔平さんが野球に出会ったのは小学2年生。
出典元:ベネッセ
兄・龍太さんたちと一緒に野球で遊んでいるうちに野球の魅力に取り憑かれてしまったのだそうです。
そして、小学2年の時に岩手のエリート野球少年団とも言われる「水沢リトル」へ入団しています。
引用元:新春スペシャルYouTube
野球生活を支えた父親
この頃から、父親は大谷翔平さんの野球を支える大きな存在となっていきます。
引用元:新春スペシャルYouTube
翔平は兄やその友達とやる野球が楽しく、小学2年生の時に「水沢リトル」に入りたいと父にせがむ。リトルリーグに入れるのは3年生からだが、熱意に根負けした父がチームに頼み込んだ。
リトルリーグは本来は小学3年生以上が入団条件。
しかし大谷翔平さんの野球の熱意に負けた徹さんは、
- 「水沢リトル」関係者に頼み込み大谷さんの入団を許可して貰う
- リトルリーグのコーチを志願し、仕事を多少犠牲にしてでも、翔平の野球に全力で関わろうと決意
という行動に出ました。
引用:ニッポンの天才
父親はその頃、大谷翔平さんを「プロ野球選手にしよう」とは考えていなかったそうですが、野球を通じて仲間の大切さを知り、長い人生の中に野球がある生活を送ってほしいと願いながら指導。
そんな思いとは裏腹に、水沢リトルでの大谷翔平さんは、チームメイトが数時間かけてマスターする動作もすぐできてしまうなど抜群の野球センスが際立っていたそうです。
投手としてもリトルリーグ時代から才能を発揮していた大谷さんは、小学5年時には「水沢リトル」のエースとして君臨。
リトルリーグの平均球速が90キロと言われている中、MAX110キロの速球を投げるほどでこの頃から豪腕が目立っていました。
左打ちに変えたのもこの頃だったそうです。
中学でシニアになると練習は週4回になったものの、父は昼夜二交代の勤務を調整し、徹底して付き合っていました。
父親:「翔平が野球を始めてから、会社の飲み会や友達との付き合いはしなくなりました。でも、子育てのために無理してそうしたわけではなく、息子たちと野球をやっている方が僕自身も楽しくなった。寝なくとも翔平の野球の練習には足が向きましたから」
この頃父親が大谷翔平さんとの間で始めたのが、「野球ノート」と呼ばれる交換日記です。
- その日の評価
- アドバイス
- 試合の反省・課題
などを書いていったそうです。
その中でも大谷翔平さんが今でも大事にしている父親・徹さんからの3つの教えがあります。
- 「大きな声を出して、元気よくプレイする。」
- 「キャッチボールを一生懸命に練習する。」
- 「一生懸命に走る。」
この3つは野球の基本。
しかし、大谷翔平さんは、野球に取り組む時の意識づけや練習姿勢のあり方として長く大谷選手の中に生き続けるものとなったようです。
野球熱心な父親でしたが、一方で家族の間で大切にしていたことがあります。
- 自宅には野球を持ち込まず、家庭では一緒に風呂に入る
- 普通の父親でいることに徹していた
- 家族一緒にご飯を食べて、団らんの時間を大切にしていた
- 子供を叱らない
- 夫婦ケンカをしないようにしていた(しても翌日に持ち越さない)
- 食器の片づけを自分でして、おはよう、お休みの挨拶をしていた
これらのことは、当たり前の事ではありますが、なかなか出来ないのも事実。
成長期の翔平選手をあたたかく見守ってたということですね。
穏やかな両親のおかげで、現在の素直で心優しい大谷翔平さんに育ったことが分かります。
母親が大好きだった少年時代
一方の大谷翔平さんは、お母様の大きな愛情にも支えられていました。
家の家事を済ませるとすぐに姉を連れてグランドに足を運んでいたそうです。
そんな大谷翔平さんは、当時甘えん坊&ママが大好き少年だったそう。
連中試合の際も、相手チームの選手に打たれてしまうとすぐに大好きな母親の元へ走り寄って行っていた大谷さん。
母親が大好きな故に、大谷翔平さんの好きなタイプは、母親がモデルになっているそうです。
- 優しい人
- スポーティーな感じの人
大谷翔平さんの野球生活を、陰ながら応援してきた母親のことをとても慕っていたことが分かりますね。
このように大谷翔平さんのことを両親揃って全力で応援。
その為、大谷翔平さんが野球に取り組み始めてからは大谷家の休日はなくなってしまいます。
しかし、野球を通じて一家で同じ時間を共有できることを楽しんでいたとのこと。
家事を済ませると姉を連れ、毎回グランドに足を運んだ。翔平が野球を始めて以降、大谷家から休日は無くなったが、それでも一家はたっぷりと同じ時間を共有。
大谷翔平さん家族の絆の深さが感じられますね。
中学時代:監督からの禁止命令
小学を卒業後の大谷さんは、奥州市立水沢南中学校に進学。
中学進学時には、既にMAX120キロの速球を投げるほどに成長していた大谷翔平さん。
中学1年の夏までは部活ではなく「水沢リトル」にてプレーで野球に打ち込んでいました。
そんな「水沢リトル」での最後のシーズンに、大谷さんはとんでもない記録を達成します。
2007年6月のリトルリーグ・東北大会準決勝の「水沢リトル」対「福島リトル」戦に先発した大谷さんは、規定6イニングの18個のアウト中17個を三振で奪うという偉業を達成。
2007年6月3日、リトルリーグ全国大会出場をかけた東北大会準決勝。大谷がエースで3番、キャプテンを務める「水沢リトル」は、「福島リトル」と対戦。当時大谷は中学に上がったばかりの12歳だった。この全国行きの切符をかけた試合で、大谷は、規定の6イニング全18個のアウトのうち、初回から9者連続を含む17個の三振を奪う離れ業をやってのけた。
めきめきと成長を重ねていく大谷翔平さん。
中学1年の夏以降は、「一関リトルシニア」に所属することになりました。
父・徹さんもコーチとして「一関リトルシニア」に関わることになったそうです。
「一関リトルシニア」の練習は週4日と、自動車工場で昼夜二交代制で働く徹さんにとってはかなり厳しいスケジュールだったようですが、睡眠時間を削ってまで息子の練習に付き合うこととなったとか。
「一関リトルシニア」時代の大谷さんですが、河川敷の練習グラウンドだったせいで、打撃練習中に川にポチャリと入るホームランを連発してしまったという伝説が残っております。
練習用の硬式野球ボールは、1個数百円と中々なお値段なため、大谷さんの打撃練習中に川底に消えてしまうボールを補填するだけでも結構な額になってしまう状況でした。
そのため、「一関リトルシニア」の監督から飛距離の出る引っ張り打ちを禁止されてしまった大谷さんでしたが、そのうち流し打ちでも川ポチャホームランを打てるほどの成長を見せて、周囲をさらに驚かすことになりました。
そんなスーパーすぎる大谷さんがいた「一関リトルシニア」は、大谷さんの代で当然のように全国大会に出場しているようですね。
高校時代:名門・花巻東高校に進学
中学を卒業後の大谷翔平さんは、高校野球の名門である花巻東高等学校へ進学。
花巻東を選んだ理由は、エースとして花巻東を甲子園準優勝に導いた、現・西武ライオンズの菊池雄星さんに憧れていた為です。
花巻東入学後の大谷さんは、野球部監督である佐々木洋さんの指示により、将来の夢を叶えるために必要な行動や要素をまとめ上げた「目標達成シート」を作ることになりました。
高校球児の身でありながら、将来の目標が甲子園出場ではなく、ドラフト1位指名なところに、大谷さんの大物ぶりが現れていると言えます。
花巻東入学直後の大谷さんは、既に190cmの長身に育っておりましたが、体重がわずか65kgとヒョロヒョロとした体型だったため、まずは1日ご飯10杯を食べる食育からスタートすることになったそうですね。
「大谷は入学時、身長が190センチもあるのに65キロしかなくて、本当に細かったんです。体の使い方は上手。技術的にもしっかりしていた。あとは体を大きくして強くする、という課題が明確でした。
高校時代:成長痛に悩まされた時期
そんな大谷翔平さんですが、高校時代は身長190㎝。
それでもまだまだ思春期で成長過程にあった大谷さんは成長痛で悩まされた時期がありました。
当時の監督も入学から1年の秋までは打者に専念させるなど調整を行っていたと言います。
しかし、それでも高校1年時にはMAX147キロを記録するなど、抜群の素材ぶりを発揮していた大谷さん。
高校2年の春には、MAX151キロのストレートを投げるほどに成長していた大谷さんは、プロのスカウトたちから「みちのくのダルビッシュ」との異名をつけられます。
甲子園で思い知らされた挫折
出典元:日刊スポーツ
大谷翔平さんが、初めて甲子園に出場したのは、高校2年の夏のことでした。
本来ならば、ここで華々しい甲子園デビューを飾っていたはずの大谷さんでしたが、当時は左股関節の骨端線損傷という成長痛のいち症状に悩まされていたため、先発を回避して外野手として1回戦の帝京高校戦に挑むことになりました。
全国に大谷の名を知らしめたのが、昨夏の甲子園だった。1回戦の帝京戦で救援登板。5回2/3を3失点(自責1)で負けたものの、150キロをマーク。05年夏に駒大苫小牧の田中(楽天)が記録した2年生の甲子園最速に並んだ。それも、左太もも裏痛で「全力で投げられない」状態で。下半身を使わない「手投げ」で、驚かせた。
引用:花巻東・大谷160キロ全国制覇へ肉体改造
帝京戦は先発投手がKOされたため、大谷さんがリリーフ登板をすることになりましたが、序盤の大量失点が響き、7-8で花巻東は敗れております。
続く、高校3年春の「春の選抜大会」でも東北予選を勝ち抜いて甲子園出場を果たした花巻東ですが、今度は1回戦にて、この大会の優勝チームとなる大阪桐蔭高校と対戦するというくじ運の悪さに泣くことになります。
この試合は大谷さんが先発したものの、8回と3分の2を投げて9失点と、大阪桐蔭打線に打ちのめされることなり、花巻東は2-9で敗退しました。
投手&打者の二刀流の選手に
今でも、大谷翔平さんの魅力と言ってよいのが、投手と打者の二刀流の選手ということです。
2017年に放送された「嵐にしやがれ」では、大谷翔平さんの人生の中では、バッター>投手の経験の方が長かったことを明かしています。
出典元:2017年放送「嵐にしやがれ」
練習は今でもバッターが好きなのだそうです。
ただ、大谷翔平さんの中にはやはり「投手」でいきたいという気持ちも大きかった理由がありました。
- 勝負が決まる比率はピッチャーが高い
- 試合はピッチャーの方が集中できる
- メジャーリーグに行きたい
「投手・打者」どちらか選択することも迷われていた大谷翔平さん。
そんな時、大谷翔平さんの想いを叶えてくれる環境がある球団と出会うことになります。
高校卒業後:日本ハムに入団を決断
高校3年の夏時には、NPB球団どころかメジャー球団までもが注目をする逸材となっていた大谷翔平さん。
岩手県大会準決勝の一関学院高等学校戦でMAX160キロを記録するなど、全国メディアでも話題となります。
岩手県大会決勝の盛岡大学附属高校戦では、誤審3ランホームランに泣き、3-5で敗れることとなった花巻東。
3年夏の甲子園出場を逃した大谷さんに待っていたのは、日米各球団によるスカウト合戦でした。
そして高校生3年生の秋、ドラフトが近づいてくると大谷の進路が注目されるようになります。国内球団をはじめ、ドジャース、レンジャーズ、レッドソックスのメジャー3球団と面談を行い、高校の監督や両親と進路に関する話し合いを何度も重ねた結論がメジャー挑戦でした。
そして2012年のドラフト会議で日本ハムファイターズが大谷さんを1位指名。
¨「メジャーリーグ」に行きたい¨大谷翔平さんにはかねてからの夢があった為、本来ならこのまま高卒後はアメリカへ渡米を考えていました。
指名された当初は、「一刻も早くアメリカに挑戦したい」という思いが強かった大谷さんですが、最終的には日本ハム入団を決意することになります。
若年期のメジャー挑戦の不安を示した30ページに及ぶ「大谷翔平君 夢への道しるべ」には「自分の知らないことがあった」と言い、画期的な「エース兼4番」の二刀流育成プランと、具体的に示されていくうちに心変わりした。「自分の中でどちら(投手と打者)でやりたいのか…。やりたい方は投手なんですけれども、どちらで、というのが自分の中ではっきりしていない。どちらでもやってみたい。すごくうれしかった」と言葉を選んだ。
当初は、打者と投手の2つをやる可能性はないと考えていた大谷翔平さん。
日本ハムに入団を決めた理由は、
「打者と投手の二刀流をさせてくれる」
という柔軟な考え方があったからだと語っています。
出典元:2017年放送「嵐にしやがれ」
日本ハムでの大谷翔平さんは、二刀流を武器に活躍。
14年に11勝(4敗)と10本塁打で、史上初めて同一シーズンで2桁勝利と2桁本塁打を記録した。16年には10勝4敗、22本塁打でパ・リーグ最優秀選手に輝き、日本一に貢献しました。
大谷翔平さんは、日本ハム入団を表明した後も「やっぱり最終的にはメジャーリーグに行ってみたいと思いますし、自分の憧れている場所」と話されていました。
この言葉通り、その後大谷翔平さんはメジャーリーグへの道へと進むことになります。
夢のメジャーリーグへ~ここがスタートライン
出典元:https://baseballking.jp/ns/column/140242
2017年12月9日、大谷選手がロサンゼルス・エンゼルスと契約合意に至ったと発表。
7球団もの球団からのアプローチに関して、なぜエンゼルスを選んだのか?
巷では以下のような魅力的な条件があったからではないかと言われています。
- 慣れた環境を出来るだけ保持しようと努めてくれること
- メジャーで揉まれるなかでの成長を目指す自らの健康面を気遣ってくれる姿勢
- マイク・トラウト、プホルスというスーパースターから学ぶことが出来る機会がある
- 温暖な気候
- 日本人コミュニティーの大きさ
- 環境や治安の良い地域であること
しかし、インタビューでは何度訪ねても、大谷翔平選手は「縁を感じた」という理由だけコメントしています。
決断の理由について聞かれた大谷は、「何かエンゼルスと縁のようなものを感じた」と短く答える。その後もエンゼルスに決めた理由を詳しく聞き出そうとする質問が飛んだが、大谷の返答はそれ以上膨らむことはなかった。
公開会見のあとに日本人記者のみで行った囲み取材でも、決断のきっかけについて何人かの記者がさらに聞いたが、やはり大谷は「最高の環境一つで選んだわけじゃないですし、ただ縁を感じてなんで…」「響いた言葉というよりは、感覚的なところです。フィーリングが合ったんじゃないかなという感じ」と答えている。
大谷翔平選手は、入団当初は「ここが(自分の)スタートラインだ」という言葉を話されており、
「ここがスタートラインだと思っているので、本当ここからが始まりですし、これから先の方がより大事なんじゃないかなと思っています」
大谷翔平がメジャーリーグ挑戦でルーキーイヤーに放ったホームランは22本。
この本数は、従来の日本人バッターのルーキーイヤー本塁打数18を更新する歴代最多のホームラン数です。
しかも、日本人歴代最多の本数ながら326打数という少なさ。打者としてフル出場していたら一体どれだけのホームランが放たれていたのでしょう。
世界でも評価される人柄
野球としての能力もさることながら、チームメートやファン、敵軍の選手からも称賛されているのが、大谷の『人間性』です。
これまでの数々の試合の中で大谷翔平さんの取った行動について、「愛さずにはいられない」と話題になってきました。
☆
①粘着物検査にも笑顔で対応
Of course this is how Shohei Ohtani’s substance check goes.
Smile. Laugh. Thank them.
— Ben Verlander (@BenVerlander) June 23, 2021
他のMLB投手が粘着物検査にいらつく様子を見せる中、大谷翔平は笑顔で対応。
「愛さずにはいられない」「更に大谷翔平が好きになった」「何をやらせても一流」「確かにこれこそが一流のふるまいだよね」「子供に見せるべき」「そうだ教科書に載せるといい」などと話題になりました。
↓こちらは他のMLB選手の一例。
Sergio Romo completely drops his pants as an umpire approaches him for a foreign substance check pic.twitter.com/fmALeyGSkU
— Jomboy Media (@JomboyMedia) June 23, 2021
他の選手の対応と比較してもその人柄の良さがとても伝わりますね。
すなおに検査に応じる人は多いものの大谷翔平のように笑顔で応じる人は少ないそうです。