俳優の大東駿介さんは、小学3年生の時に父が、そして中学2年生になると母も蒸発するというネグレクトに遭い、中2にして独り暮らしを強いられたそうです。
家のライフラインも泊まり、常に空腹で「野良犬みたいになっていた」と明かしています。
当時を「世の中に怒りしかなかった」と振り返る程の壮絶な過去を送ってきた大東駿介さんの生い立ちについて、父親・母親・祖母など家族にも触れながら紹介させて頂きます。
目次
大東駿介のプロフィール
2005年にPIZZA-LA Presents・トップコート杯「Try to Top 2005」でグランプリを受賞し、『FINEBOYS』の専属モデルとして活躍。
俳優としては、2005年に『野ブタ。をプロデュース』でデビュー。
その後、『おいしいプロポーズ』、『リアル鬼ごっこ』、大河ドラマ『平清盛』などに出演し現在も俳優として活動しています。
- 本名 大東 弘典
- 芸名 大東 俊介(旧芸名)
- 生年月日 1986年3月13日
- 年齢 34歳
- 出生地 大阪府堺市
- 身長 182 cm
- 血液型 A型
- 職業 俳優・タレント・ファッションモデル
- 活動期間 2005年〜
- 事務所 A.L.C.Atlantis
大東駿介さんは、一人っ子で父親・母親との3人家族でした。
父親の職業はタクシードライバー、母親は自営業のクリーニング店をしていました。
その両親が二人とも蒸発し、中学生にもかかわらず一人暮らしを強いられた大東駿介さんはなぜそのような生活を送るなったのか詳しく説明していきます。
大東駿介の生い立ちが壮絶で泣ける!両親が蒸発し中2で独り極貧生活
小学3年生で父親が蒸発
小学生時代の大東駿介さんは、とても活発な少年でした。
グループの中ではリーダー的存在で、毎年学級委員を自分で立候し、学級委員として務めていました。
更に演説もしてみたいという理由で、児童会の役員も自らしていたそうです。
明るくリーダー的存在で目立っていた大東駿介さんは、バレンタインのチョコを20個ももらうほどモテていたのだとか。
そんな大東駿介さんに衝撃的な出来事が起こります。
小学3年生の時に父親が蒸発してしまったのです。
父親の職業は、タクシードライバーでした。
職業柄上、普段なかなか自宅で顔を合わせられず唯一、誕生日の日だけはタクシーの中で会うことができたそうです。
そんな日々を過ごしているうちに、いつの間にか全く父親と会うことが出来なくなっていきました。
そして、小学3年の時に母親から「離婚した」と聞かされ初めて両親の状況を理解したそうです。
それにしても会わんなあと。よくよく考えたら誕生日にしか会わなかったんですよ。誕生日の時も家じゃなくて、お父さんのタクシーに呼ばれてタクシーの中でプレゼントをもらう。小学3年生の時にうちのおかんが井戸端会議みたいなのをしてて、通りすがり様に聞こえたのが「離婚した」って。
引用:『おかべろ』
結局は父親は無言で大東駿介さんから離れてしまった訳なので、大東駿介さんは蒸発したと捉えているのですね。
父親は大東駿介さんが30歳手前になった時に見つかったのですが、半ば捨てられたような感情に近いものがあり、結局会わないという決断をしました。
その後、会ってみようかと思ったときにはすでに亡くなっていたそうです・・
この経験を大東駿介さんは、映画「望郷」で演じた”航”を通し、共感する部分はあったと語っています。
航と自分の違いは考えたことがないけど、航の思う父親像を自分と比べたとき、重なったところが結構多いんです。僕も父親を亡くしているんですが、父親に対する思いをないがしろにしているというか、父親についてあんまり考えたことがない。僕は親父と向き合ってこなかったけど、台本と向き合っていくうちに、つまり仕事を通して、父親と向き合っていくことになったんです。
引用:cinema.ne.jp
役者の仕事を通して、父親を改めて考えることが出来たと語っています。
映画「望郷」の“航”と重なる部分があると話す大東駿介さんですが、このようなセリフがあります。
「父は何を想って死んでいったのだろう。できることは祈りを返すことだけだ。よく生きていることを見ていてほしい。」
勝手な父親を許せなかった大東駿介さんも、今では父親を許しているのかもしれませんね。
中学2年に母親が蒸発
大東駿介さんは、地元の『堺市立旭中学校』へ入学します。
小学生時代から活発で、足の早かった大東駿介さんは陸上部で短距離走の選手として活動していました。
そして、小学生時代はクラスのリーダー的存在だったのが中学時代からは超人見知りになってしまったといいます。
思春期に入り、人見知りになってしまうことは、あるあるなのかもしれませんね。
同じ人見知りで気があった、仲間5人とよく一緒に遊んでいたそうです。
5人とも人に馴染めないことを理由に、口グセで「俺たちダメやな」と言っていたことから、いつの間にか「ダメ」というグループ名になっていたそうです。
そんな大東駿介さんをまた衝撃的な出来事が襲います。
中学2年生に母も蒸発したのです・・!
大東駿介さんの自宅は母親が営んでいたクリーニングと併用していました。
母親が外出の際には、シャッターが半分閉じられている状態で、そんな日が度々ありました。
大東駿介さんが中学1年の頃には、クリーニング店のシャッターがほぼ毎日半分閉じられていたそうです。
そして階段のところに現金が置いてあり、そのうちにお金を置いて帰ってこない日が2日、3日、1週間と延びていきました。
そして、母親はとうとう全く帰ってこなくなったのです・・。
大東駿介さんは一人っ子であった為、他に支え合う家族もおらず、両親からネグレクトに遭い、中2にして独り暮らしを強いられることになってしまいます。
駄菓子屋のどんど焼きで食いつないだ
独り暮らしを強いられた大東駿介さんは、クリーニング店をしていた家のレジに残された小銭で駄菓子を買ってしばらく食いつないでいたそうです。
1円玉で10円の駄菓子を買いサラダ味の「じゃがりこ」にお湯をかけてサラダ代わりにしたりしていました。
特に食べていた駄菓子は、どんど焼きです。
当時の大東駿介さんは、どんど焼きは、もち米で作られたあられと、少し豆が入っており栄養化が良いと考えていたそうです。
一店舗で一つだけ購入し、自転車でハシゴして他の店舗へ買いに行っていたそうです。
所持金が1円玉ばかりだったため、「コンビニとかで買うと恥ずかしいから、一つの店で1個。また自転車こいで違うコンビニで1個。かわいそうなやつと思われたくなかった」と振り返った。
引用:スポニチ
過酷な生活をしていた大東駿介さんですが、自尊心だけは失いたくなかったのかもしれませんね。
実は、大東駿介さんは現在も当時の過酷な経験を語る際には自尊心を忘れずに話されている印象があります。
20代前半の頃は自分の中にある負のエネルギーをガソリンにして回してたところがある。「俺なんて……」とか嫌なエネルギーの使い方をしてたんですけど、30歳手前くらいになってからやっぱり人を笑顔にするとか物事のいいところを見つけに行く、そういうエネルギーのほうがよっぽど難しくて力強いってことに気づいて考え方が大きく変わりましたね。
本来なら、「親に捨てられた」「ネグリストにあった」等、恨みがこもった言葉を選んでしまいそうですが、一切そういった言葉を使いません。
壮絶な経験を、“自分にしかない強み”と捉えているのです。
大東駿介さんは、本当に強い人だと感じます。
現在俳優として活躍できているのも、大東駿介さんのそんな強い精神面も一つの理由なのかもしれませんね・・!
「世の中に怒りしかなかった」
中学時代の過酷な経験はまだ続きます。
独り暮らしをしている大東駿介さんを、近所の男性が大東さんを心配して家を訪れた時のことです。
大東さんが鏡を見つめながら自分に「殺すぞ」と叫んでいたそうです・・
その時は、ホントに世の中に怒りしかなくて、1回、近所のおっちゃんがドアをバンって開けたんですよ。1階に大きな鏡があったんですけど、鏡に映った自分に対して「殺すぞ!」って叫んだんですって。全然覚えてないですけど。(略)1人でいたくないのに、1人でいたいと思ってたから、助けてくれる人にも牙むいてた。
出典:『A-Studio』
その頃の大東駿介さんは、
- 「世の中に怒りしかなかった」
- 「助けてくれる人にも牙を向いていた」
- 「野良犬みたいになっていた」
とご自身でも語っている通り、かなり心が荒んでいたようですね。
大東駿介さん、ウサギのフンまみれのベッドで横になりながら、漠然と俳優になりたいと思っていたそうです。
理由は俳優なら、
- 「自分じゃなく生きれるから」
- 「別の人間」になることでしか自分の生きる道はないと思った
この俳優になりたいという理由から、当時の貧欲な生活から抜け出したいと言うことが伝わってくる気がします。
後に大東駿介さんは、対人恐怖症に悩ませられることになるのですが、こういった経験や気持ちの積み重ねから発症してしまったのかもしれませんね。
救ってくれた5人の友人達
そんな日々を救ってくれたのが中学の頃、いつもつるんでいた5人の友人達です。
大東駿介さんの極貧生活は、限界に達し話し相手は小5の時に拾ってきたウサギだけになり、とうとう家のライフラインも止まってしまったそうです。
そう思うようになり、次第に引きこもりの生活となっていきました。
そんな時、仲の良かった5人の友達が玄関のドアを壊して入ってきたといいます。
引きこもって学校に行ってなかった時に、毎日「大東!」って呼びに来てくれるんですよ。ある日、それでも出なかったら、「ドン!」って音がして1階のドアぶち破って入ってきたんです。それで救われましたね。
出典:『A-Studio』
それから、大東駿介さんの自宅が仲間のたまり場になります。
大東駿介さんは当時のことを、
と語っています。
ちなみに、その5人のうちの1人が漫才コンビ「金属バット」の小林圭輔さんだそうです。
小林さんによると、「あんまり親が家にいない家だなぁ」とは思っていたが、大東駿介さんがそういう状況だと知らなかったそうです。
他にも友人の家に遊びに行った帰りに、友人のお母さんから「夕飯を食べてさいね。」と声をかけられたそうです。
大東駿介さんにたらふく食べさせてあげようと、同じ食卓にカレーと寿司と焼きそばなど並んでいたそうです。
大東駿介さんは当時は、「一般家庭の夕食はこんなに豪華なんだ」としか思わなかったそうてすが、今となっては自分のことを思ってしてくれていたのだと気づいたそうです。
そして大東駿介さんは、その後近所に住んでいた「厄介事引受人」のような伯母に引き取られることになります。
その親戚とのエピソードはあまり見つからなかったのですが、本当の息子のように、大事に育てられたそうです。
俳優になった大東駿介さんは、今でも自分を救ってくれた友達や伯母に感謝しているそうです。
「助けてもらった人たちに感謝を返せてない」
と語り、周囲から受けた恩義をかみ締めるようです。
対人恐怖症になった高校時代〜上京
大東駿介さんは中学卒業後は、『府立 堺工科高等学校』卒業しています。
その頃の大東駿介さんは、「対人恐怖症のレベルの超人見知りになっていた」と語っています。
高校時代に役者の道を志したという大東だが「本当に人見知りが酷くて。ちょっと病気の域。本当に対人恐怖症で」と当時を回顧。「眼鏡をかけてみたら『人ってこんな目で俺のこと見てるんや』と思って。そこからめちゃくちゃ怖くなって」と眼鏡やコンタクトをつけずに過ごし、手汗もとまらなかったという高校生活を明かした。
引用:モデルプレス
両親の蒸発や、過酷な独り暮らしを経験したのが理由になっているのかもしれませんね。
そんな大東駿介さんは高校卒業後、大阪から上京することになります。
幼少期に観た仮面ライダーへの憧れもあり、役者の道を志したいと思っていたからです。
また、「対人恐怖症」という自分を打破しようと、誰にも相談せずに大阪から上京を決意します。
上京後は、兄と慕う8歳年上の従兄弟と一時期同居をしていました。
大東駿介さんは、幼少期から近所に住んでいた従兄弟ともよく遊んでおり、その中でも8歳年上の従兄弟からは色々な遊びを教えてもらっていました。
高校卒業の際も、相談もしてた非常に仲が良い従兄弟だったようです。
まずは、対人恐怖症を治す為に原宿のカフェで1年間バイトをしていた大東駿介さん。
カフェにした理由は、
- 一番苦手な相手が若い女の子
- 一番苦手な場所がカフェ
上京した当時のことをこのように語っています。
あえて「自分が一番苦手な人種が集まる場所」だった原宿に飛び込み、カフェのバイトで対人恐怖症克服に挑んだ。「反動的に人のことが面白くなって、興味を持ち始めた」
バイト先の店長は、ジュリアンというオーストラリア人だったそうで、対人恐怖症の改善するきっかけとなったそうです。
「相手に興味を持って聞け」と緊張してしまう原因の人との極意も教えてもらった。」
引用:モデルプレス
また、同居していた従兄弟の存在もあり少しずつ対人恐怖症は改善されていったといいます。
役者になってもカメラが怖かった
上京して1年後の2005年、PIZZA-LA Presents・トップコート杯「Try to Top 2005」でグランプリを受賞します。
大東駿介さんは、初めて受けたオーディションで見事合格をつかみ、役者の道をに進むことになったのです。
『FINEBOYS』の専属モデルとして活躍し同年2005年には、社会現象にもなった「野ブタ。をプロデュース」にも出演が決まりました。
(野ブタをプロデュースで”谷口健太”役を演じる大東駿介さん)
しかし、まだ克服しきれていない人見知りに苦しみながらの撮影だったと当時を振り返っています。
「リハーサルの時点ですぐ人の後ろに隠れてしまうの。カメラが怖くて。その時散々怒られて、辛いこといっぱいあったけど、それが面白かったですねえ」
「あれくらい無我夢中に、後先考えずにエネルギー持てるってすごかったな」
引用:モデルプレス
俳優として走り出した当初も、まだ対人恐怖症と戦いながら我武者羅に仕事を頑張っていたようです。
大東駿介の過酷な体験からの思い出の食べ物
大東駿介さんは、とても過酷な学生時代の経験で強い思い出のある食べ物や飲み物があるようです。
スティックチョコパンとジャムマーガリンのコッペパン
中校での昼食は給食ではなく弁当だったため、何も食べていない大東駿介さんを見つけた担任教師が、気を利かせてこっそりと廊下でパンを渡してくれたといいます。
その為、今でもその時に食べたスティックチョコパンとジャムマーガリンのコッペパンが大好きだそうです。
上品な小鉢の並ぶ和食屋に行っても、帰り道にスティックチョコパンを食べてしまう程だと打ち明けています。
きっと、大東駿介さんにとっては担任の先生の優しさが詰まったパンの味として今でも好きな食べ物になっているのですね。
炭酸水
壮絶な極貧生活を送らざるを得なかった大東駿介さんは、“一番感動した飲み物”として炭酸水を挙げています。
コンビニなどでは、ジュースは美味しいから買うけど炭酸水は買わないのだそうです。
『水がシュワシュワして100円って、一番贅沢』
語っており、大東駿介さんの中では、ただの水がシュワシュワするだけの飲み物に100円を払うのは贅沢と考えているようですねw
極貧生活時代を過ごしてきた大東駿介さんだからこそ思い出の深いパンや、100円の炭酸水ですら贅沢と感じてしまう謙虚さが見についているようです。
ネット上の声
育児放棄をされ苦労した大東駿介さんの生い立ちについてこのような声が上がっています。
『苦労を乗り越えた人は強い。頑張る姿が何より先生への恩返しだと思います』
『環境のせいにせず、俳優にまでなられて、涙が出ます。今後の活躍をお祈りします』
『本物の良い俳優さんになってほしいです』
『勇気を頂ける方が沢山いるのでは』
まとめ
今回の記事では、壮絶な過去を送ってきた大東駿介さんの生い立ちについて、父親・母親・祖母など家族にも触れながら紹介させて頂きました。
両親が共に蒸発し、叔母に引き取られた時期には“まるで野良犬状態”だったという大東駿介さん。
そこから這い上がって見事な役者人生を歩み、今ではそうした過去を笑いすら交えながら振り返るタフさを見せつけていてとても強い人ですね!
悲惨な環境下でも屈強に生き抜いてきたからこそ、現在の輝かしい俳優としてのキャリアがあるのかもしれません。